The北海道ファームでは、ここ栗山町の稲作について様々な面で勉強をしています。
という中から、今日は「水田発祥の地」のご紹介です。
町内の会館の前にひっそりと建つ石柱。そこにはこんな記述が。
「水田発祥の地」
~明治26年 高瀬和三郎は水田開発に努め、
自然流下水を利用して5町歩の水田を作り、
札幌以北、初の米づくりに着手、反収5表をあげ
町農業振興の契機を作った~
ひっそりとした石柱に歴史的に重大な素晴らしい功績の記録がありました。
北海道稲作の発祥が、島松での中山久蔵氏による明治6年なので、
その20年後、石碑にあるように札幌以北最初という事で、とても大きな功績です。
同年に、同じ町内角田でおなじみ泉麟太郎氏が稲作に成功していますので
このお二人が、協力して成功させたという事なのでしょう。
しかも、この高瀬和三郎氏の「水田5町」面積広いです!(The北海道ファームは7.5町です)
現代のような機械はなく、人力と道具で行う明治の稲作で5町を耕す苦労は想像を絶します。
すごすぎるぞ!高瀬和三郎氏とその仲間たち。
泉氏は3反(0.3町)で成功させていますが、それと比較してもまさに桁違いの面積。
いきなり、大規模で挑戦した高瀬氏の先進性、挑戦する気合い、素晴らしすぎる。
しかも「反収5表」。今のThe北海道ファームが7~8俵くらいなので、。
作り方を失敗した場合、反収5表を割り込むことも十分あり得ることを考えると
明治26年でこの取れ高というのも、素晴らしすぎる。
泉氏に至っては、反収7俵という事で、現代とほぼ同じ。
すごすぎるぞ、
明治26年の高瀬氏&泉氏の水田への取り組み!!
さらにこのあたりの北海道の水田の黎明期の展開を調べ始めると、面白くなってきました。
この先は、想像の範囲という事で、ご理解をいただいた上で、お読みください。
中山久蔵氏は、仙台藩片倉氏に仕えて蝦夷地白老の仙台藩陣屋と仙台を行き来していました。
泉麟太郎氏は、仙台藩支藩の角田藩の家臣の出身で蝦夷地室蘭から栗山町と開拓に入りました。
という事から想像するに、この二人は多少なりとも面識があったと想像されます。
つまり泉氏は中山氏に開拓の事や稲作の事を教わったと思えるわけです。
高瀬和三郎氏は、不明な点があるので何とも言えませんが、
札幌からきて(※ここポイント)泉氏の真成社に参加しています。
また、中山久蔵氏が高瀬和三郎という人に、明治4年(中山氏が稲作に成功する2年前)に米を渡したという
文献もあるようです。そうなると中山氏から米を貰い受けた高瀬氏が、20年の紆余曲折のすえ
泉氏と協力しここ栗山町で初めて大規模稲作に成功したと考えると、面白いストーリーになってきます。
ただ、中山氏が米を渡したという高瀬和三郎氏という人物がはたして、栗山町の高瀬和三郎氏と同一人物なのか?
高瀬和三郎氏なる人物が、北海道では函館で商売をして札幌(※ここポイント)に転じ、宿屋を経営したり
戸長(一種の行政職の役人)を務めていた記録もあるようですが、栗山の高瀬和三郎氏と同一人物なのかの
確証はないです。ただ、札幌にいたというポイントが共通しますし、名前も同じなので同一人物かなと思うわけです。
これがもし裏付けられれば、事実は小説よりも奇なりというか、本当に小説のような展開です。ドラマチックすぎる展開。
高瀬和三郎氏について、もう少し調べてみようかなと思いますが、
こうなってくるとThe北海道ファームとは、ほぼ関係ない状態。
北海道開拓史の話になってきて、完全に趣味の世界になります。